杜甫
杜甫の生涯(712~770)

・字は子美、襄州襄陽(湖北省襄陽県)の人。少陵と号し、後にはその役名から杜工部とも呼ばれた。

・東部洛陽に近い鞏県(河南省)で生まれた。家は代々官吏であり、遠い祖先には晋の名将杜預をもつ。杜預はまた「春秋左氏伝」に注釈を加えた学者としても名高い。

・祖父は初唐の優れた詩人である杜審言である。父は杜関といい、長く地方官をしていた人である。

・このような家系が、杜甫を早くから政治と文学への希望を抱かせたといっても過言ではない。

・幼くして文才があり、7歳のころから詩作を始めたという。ところが30歳までの作品が残っていない。何故なのか?

20歳から35歳ころまでの間、呉(江蘇省)、越(浙江省)、斉(山東省)、趙(河北省)の間を遊歴していた。この間に、李白や高適らと交わりをもち、詩を賦したりしている。また官吏登用試験である科挙を何度か受験し、及第せずに「落第の高才長安に苦しむ」と評されながら、長安で困窮生活を送ったのもこのときである。

30歳頃の作                                        

 房兵曹の胡馬の詩                               

  胡馬大宛名 鋒稜瘦骨成                           

  竹批雙耳峻 風入四蹄輕                           

  所向無空闊 眞堪託死生                           

  驍騰有如此 萬里可横行

 通釈

  西域から来たこの馬は、大宛産の名誉をにない、角ばって引き締まった立派な骨格を形づくっている。竹筒をそいだような二つの耳はするどく突き立ち、風をはらむ四つの蹄は軽快に地を蹴って進む。この馬の向かうところ、至りおおせぬ空間などあらばこそ、まことに騎り手の命運を託するに足る。これ程精悍な名馬であれば、千里のかなたまでも縦横自在に駆け回ることができよう。

35歳頃の作                              

春日 李白を憶う                               

白也詩無敵 飄然思不群                            

清新庾開府 俊逸鮑参軍                            

渭北春天樹 江東日暮雲                            

何時一樽酒 重與細論文

通釈

  李白よ、あなたの詩は天下に比べるものが無く、闊達自在なその着想は凡俗をはるかに抜きん出ています。その新鮮さなところは梁の廋信に似て、才気に富むところは宋の鮑照のようです。いま私は北方渭水のほとりで、春の木々を眺めていますが、あなたは江東の地で、日暮れの雲を眺めてでもいることでしょう。こうして隔たってしまった私達は、いつまた一樽の酒を酌み交わし、もう一度つぶさに文学を語り合えるようになるのでしょうか。

・天宝6(747)年、玄宗皇帝は一芸に秀でた者を広く天下に募った。杜甫もこれに応ずるが、宰相李林甫はこの時、一人の合格者も出さなかった。

・天宝10(751)年に「三大礼の賦」三編を奏上し中書省集賢院の待制(命令を待つ)となったが、官位は与えられなかった。

39歳頃の作                                         

九日藍田崔氏の荘                               

老去悲秋強自覚 興來今日盡君歡                        

羞將短髪還吹帽 笑倩旁人為正冠                        

藍水遠従千澗落 玉山高竝兩峯寒                        

明年此會知誰健 酔把茱萸子細看

 通釈

  寄る年波に秋の悲しさもひとしおの我が身だが、つとめて自分なりに気分をくつろげることとしよう。そう思っているうちに次第に興が乗ってきたから、今日はあなたのもてなしに思い切り甘えさせていただこう。恥しいのは、年取って薄くなった髪をなおも風に吹かれ、かぶりものを落とされて老醜をあらわしてしまうこと。照れ隠しに笑いながら隣の人を煩わして、冠を正しく被せてもらうのだ。見れば藍水ははるかかなた、千すじもの谷川が山腹を流れるあたりから続いており、玉山は空高く、二つの峰のうら寂しい姿をならべている。さても来年のこの宴席では、誰が健在でいられることやら。酔ったあげく心がはれず茱萸(グミ)を手にとり、紅い木の実をじっと見つめてしまうのである。

41歳の作 科挙に落第し任官を求めて諸方を駆け回っていた時のもの        

貧交行                                    

飜手作雲覆手雨 紛紛輕薄何須數                        

君不見管鮑貧時交 此道今人棄如土                            

通釈

  今の世の人々の人情というものは、まことに軽薄で手のひらをかえすような、わずかなことで雲になったり雨となったりする。このような軽薄な輩は世間に沢山いて、いちいち数えあげるいとまもない。君たちも見て知っているだろう。昔、管仲と鮑叔が貧賤な時にも堅い美しい交際を続けていたのを、あなたのような交友の道を今の人達はあたかも土くれのようにうち棄ててしまっているのである。

・天宝14(755)年、杜甫44歳の時ようやく太子右衛率冑曹参軍に任ぜられる。この官は武器の管理と門の出入りを取り締まるという低いものであった。杜甫はこの士官を喜び、さっそくこれを家族に知らせるべく、その疎開地である奉先県(陝西省蒲城県)に赴いた。そこで安禄山の乱に会い、家族をさらに鄜州(陝西省鄜県)の羌村へ避難させた。

・至徳元(756)年(45歳)霊武(寧夏省寧夏県)で、玄宗の息子であった粛宗が即位した。そこに仮の朝廷を設けたことを知った杜甫は、さっそく霊武へ参じようとして、その途中賊軍に捕えられ長安に軟禁されることとなる。

45歳頃の作 人生の分水嶺                     
 月の夜                                  

今夜鄜州月 閨中只獨看                            

遥憐小兒女 未解憶長安                            

香霧雲鬟濕 淸輝玉臂寒                            

何時倚虡幌 雙照涙痕乾

通釈

  今夜鄜州に照る月を、(妻は)私室の中から、ただ一人で、見つめていることであろ う。(わたくしが)遠く思いやるのは、幼い息子や娘たちの、まだ長安(にとらわれ の身)の父を気遣うことさえ知らない幼さである。かぐわしい夜の霧に、妻の豊かな 髷はしっとりぬれて、清らかな月の光に、(妻の)玉のように美しい腕は、冷たく  光っているであろう。いったい、いつになったら、余人をまじえぬ部屋のカーテンに 寄り添って、月の光に(夫婦二人)ともに照らされながら、再会の涙のあとを乾かす ことができるのであろうか。


46歳(至徳2(757)年)2月の作品   

  春望

  國破山河在 城春草木深

  感時花濺涙 恨別鳥驚心

  烽火連三月 家書抵萬金

  白頭掻更短 渾欲不勝簪

通釈

  国都(の長安)は破壊しつくされたが、(大自然の)山や川は、(すこしも変わらずに)確かに存在している。(長安の)町は、(今しも)春を迎えて、草や木が深く生い茂っているばかり。(乱れた)時勢をいたみ悲しむ心をもってみれば、(美しい春の)花を見ても(楽しい気分になれるどころか)盛んに涙が流れ、(一家の)離別の状態を恨めしく思っては、(愛らしい春の)小鳥の鳴き声を聞いても、はっとさせられ(心を痛ましめられ)ぶばかりである。のろしの火は、(春の)三箇月の間うちあげ続けられて(戦乱はおさまるようすもなく)、家族からの便りは(ほとんど絶えはてて)、一万金にも相当するほど(貴重なもの)に思われる。白髪頭をかかえこめば、髪はいよいよ薄くなり、もはや、まったく冠をとめるべきピンも、ささえきれなくなろうとしている。(わが身である)

 4月 かろうじて賊軍の手中から脱出した杜甫は鳳翔(陝西省鳳翔県)の行在所で粛宗に拝謁し左拾遺となる、この官は天子の落ち度などを諌めることを仕事とする。

     位は高くないけれども気のきいたものであった。やっと46歳で宿願を果たし、この後、官軍によって回復された長安で、中央の廷臣として官吏生活を送ることとなったのである。しかし、この生活は長続きせず


 5月 張り切り過ぎて職を越えて宰相房琯の罪を弁護したことから、天子の不興を買い、華

    州(陝西省華県)の司功参軍に左遷されることとなる。


 8月 休暇を得て羌村へ(妻子のいる)


11月 曲江(長安南隅にある景勝行楽地、毎年春に進士及第者の祝宴を賜るところ)


・乾元2(759)には華州地方が大飢饉に遭い、食うこともできず、その官を捨て妻子をつれて    流浪の旅に出る。

  48歳の作  秦州雑詩二十首 其四

  鼓角縁邊郡 川原欲夜時

  秋聽殷地發 風散入雲悲

  抱葉寒蝉静 歸山獨鳥遲

  萬方聲一摡 吾道竟何之

 通釈

  陣太鼓や角笛の音が響き渡る辺境一帯。川をはさむ荒野に暮色のせまる今このとき。秋の大気の中で耳を澄ませば、それらの音は大地を響かせてわき起こり、やがて風に吹き流されて、雲のあわいに悲しく消えてゆく。木の葉にしがみついている秋セミは鳴こうともせず、山のねぐらへ帰る一羽の鳥はゆうゆうと飛び去ってゆく。今の世はどこもかしこも鼓角の音ばかり。私の道は結局どこへつづいているのだろう。

 秦州を10月、同谷に向けて出発する。さらに成都へ
・乾元2(759)年12月成都着


・上元元(760)年(49歳)成都尹剣南節度使の厳武の招きにより、成都(四川省成都市)へ赴き、厳武の推薦により工部員外郎となり、成都郊外にある浣花渓に草堂を建てて住んだ。浣花草堂がこれである。家の周囲には竹や桃、その他の果樹を植え、畑を耕したりもした。また、農民たちとも往来し、酒を飲み、詩を歌うといった生活を送った。この成都での生活が、杜甫の一生のうちで最も平穏な日々であった。

  49歳夏 成都にて

  江村

  清江一曲抱村流 長夏江村事事幽

  自去自來堂上燕 相親相近水中鷗

  老妻書紙爲棊局 稚子敲針作釣鉤

  多病所須唯藥物 微軀此外更何求

  通釈

  澄んだ川の流れは大きくひと曲がりして、村を抱きかかえるように流れている。この長い夏の日に、水辺の村はなにもかもすべてがじっと静まりかえっている。まわりのようすにかかわりなく出入りする屋敷の燕、すっかり私に馴れて近づいて来る、川を泳ぐ鷗。年老いた妻は紙に線を引いて碁盤を作り、幼いわが子は縫い針をたたいて釣りの針を作っている。病気がちの私に必要なものはただ薬だけ。こんな取るに足らない私であれば、この穏やかな日々の暮らしのほかに何をほしがることがあろう。


・永泰元(765)年(54歳)、彼に保護を与えていた厳武の死と、その後の蜀地方の乱れのため成都を離れ、家族とともに船で長江を下ることとした。忠州(四川省忠県)を経て夔州(四川省奉節県)に着き、ここで2年間(767)生活した。


・その後、貧困と病苦に悩まされながら江陵(湖北省江陵県)、公安(湖北省公安県)、岳州(湖南省岳陽県)と流れた。


・大歴5(770)年、衡州(湖南省衡陽県)から郴州(湖南省郴県)へと向かう途中、来陽(湖南省用来陽県)で59歳の生涯を終えた


・杜甫の詩は「杜甫一生憂う」と評されように沈痛・憂愁を基調とし、雄渾・忠厚の意に満ちている。


・詠ずる内容は多種多様であり、特にヒューマンな正義感、人間愛に基づいて、暗黒な現実社会を直視し、それを客観的に描写したことから「詩史」と評され、後の白居易(772~845)・元稹(779~831)など、社会派詩人に多大な影響を与えた。


・また、音調は非常に鍛錬されている。杜甫はあらゆる詩形に通じ、中でも古詩と律詩とを得意とした。特に対句を重んじる律詩には定評があり「李絶杜律(李白は絶句に杜甫は律詩に優れている)」と称される。


・また、李白の「詩仙」に対し「詩聖」と称され、杜牧(803~852)と区別して、杜甫を「老杜」、杜牧を「小杜」と呼ぶ。


・詩集に「杜工部集」20巻があり、その詩1450首、文30余編を収めている。


   杜甫の関係地図

杜甫関係地図


出典:二松学舎大学名誉教授 大地武雄(生涯学習講座資料より引用)