※当時の総理大臣の年給は9,600円

総理大臣    東条英機
内閣書記官長  星野直樹
外務大臣    東郷茂徳
陸軍大臣    東条英機兼任
海軍大臣    嶋田繫太郎
陸軍参謀総長  杉山元
海軍軍令部総長 永野修身

皇太后   :貞明皇后(九条節子)
天皇    :昭和天皇(迪宮裕仁親王)
皇后    :香淳皇后(久邇宮良子女王)

内大臣   :木戸幸一
宗秩寮総裁 :武者小路公共
宮内大臣  :松平恒雄
宮内次官  :白根松介

侍従長   :百武三郎
皇太后宮大夫:大谷正男
皇后宮大夫 :広幡忠隆


◆第二次世界大戦 1939年09月01日~1945年08月15日
◆大東亜戦争   1941年12月08日~1945年08月15日


■1942年03月05日 東京に初の空襲警報


■1942年03月25日 貴族院において大河内輝耕子爵が大政翼賛会を批判する質問をする


1942年3月6日 真珠湾攻撃の九軍神 発表
1942-0404


1942-0406


1942年3月28日
1942-0502


1942年3月29日
1942-0431



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『大本営機密戦争日誌』+記録者の一人参謀本部戦争指導班長種村佐孝大佐による解説

1942年3月2日
企画院から陸軍側の徴傭船舶の解傭を要求してきた。
昨年10月末の連絡会議で今年3月から毎月初頭返還することを申し合わせてあるのを、3月になっても陸軍から何の話も無いので、申し入れてきたのである。
参謀本部ではうっかりしていたのが実情であった。
東条首相兼陸相は「上奏してあるから返せ」と言うのだが、参謀本部としては何とかして解傭を遅らせようとする魂胆であるから終日話をしてもまとまらなかった。

1942年3月13日
御稜威・大権の尊きこと無限なり。
天皇機関説のごとき、この職を奉じてはじめて虚説なるを知る。
嗚呼。
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『木戸幸一日記』

1942年3月5日
午前8時頃、空襲警報発令せらる。
9時過ぎには解除せらる。
すぐに出勤す。

1942年3月8日
皆でクロッケーなす。
久しぶりに運動し気持よし。

1942年3月9日
御召により御前に伺候したるに、竜顔ことのほか麗しく、ニコニコと遊ばされ「あまり戦果が早く挙りすぎるよ」との仰せあり。
真に御満悦の御様子を拝し、感激のあまり頓には慶祝の言葉も出ざりき。

1942年3月10日
能楽の師匠来邸、『老松』の稽古をなす。

1942年3月14日
能楽の師匠来邸、『経政』の稽古をなす。

1942年3月17日
富岡警視総監来庁。
西園寺公一氏、国防保安法・軍機保護法関係にて拘引せられたるむね話あり、驚く。

1942年3月18日
甘露寺次長と西園寺公一氏の件につき相談す。
武者小路宗秩寮総裁と西園寺公一氏の件につき相談す。

1942年3月20日
出勤前、皆でクロッケーをなす。

官邸において、近衛公爵と西園寺公一氏の件を中心に懇談す。
予は極力自重を希望す。

1942年3月22日
組に分かれクロッケーをなし、勝つ。

1942年3月24日
能楽の師匠来邸、『経政』の稽古をなす。

1942年3月25日
鈴木企画院総裁より電話にて、本日大河内子爵貴族院本会議にて質問の結果、貴族院の停会を奏請することとなるやもしれざる状勢なりとの話あり。
状勢の急転いかなる理由に基づくものなりや諒解に苦しむところなるが、とりあえずすぐに参内、拝謁、右の趣を奏上す。

鈴木総裁より電話にて、貴族院は無事終了せるも、衆議院の情勢もまた必しも安全ならず、解散の場合をも考慮中なりとのことなり。
陛下に拝謁、右の趣を奏上す。

1942年3月29日
皆でクロッケーをなす。
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『入江相政日記』

1942年3月2日
山田君が仮御所の近況につき話す。
石川岩吉氏の奇々怪々の行動につきいろいろ話を聞く。
どういう人だかよくわけがわからぬ。
東宮様の御ためを思っての行動とはどうしても受け取れぬ。

1942年3月4日
夕食には武官府の酒をもらいいい気持ちになっているところへ警戒警報。
アメリカの航空母艦が2隻南鳥島に来て40機で爆撃、高角砲で7機を撃墜したとのこと。
それがまっすぐに来れば、明暁4時半とのこと。
第二期庁舎に移御。

1942年3月5日
朝食を食べながらみんなでアメリカの悪口を言う。
南鳥島 ぐらいを爆撃するのが関の山だろうなどと言っているうちに空襲警報が鳴り出す。
いよいよ来たという気はしたが、どうせアメリカのことだ大したことはあるまいと思う。
9時頃に解除。
暗号の間違いであったらしいが、戦勝に奢るような気のあるところにちょうどいい薬だった。
謡はますます面白い。
『西行桜』をあと一番やって九番習ということになる。

1942年3月12日
今日は戦勝第二次祝日で宮城前に旗行列などだいぶ来ているらしいが、第一回よりはずっと少ないらしい。
第一回のようにシンガポールというようなまとまったものがないのと、2日前に陸軍記念日を大いにやったためであろう。
潜水艦が近づいたらしいというので午後4時警戒警報発令。

1942年3月29日
三笠宮邸へ行く。
今日は三笠宮妃殿下の御実家の関係の人々を召されたのである。
母上・兄上・姉上・高木兄上・高木姉上・坊城兄上・細谷さん・正順夫妻・桃子・小夜子・予ら夫妻である。
御庭で御弁当をいただき、殿下の御案内で御庭を拝見する。
いつ拝見しても結構な御庭である。
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